今回はバッハ(Johann Sebastian Bach, 1685-1750)について書いてみます。実は紹介しようと思っても、バッハに関しては私自身も最近聴き始めたので、これまで書いてきた記事よりさらに内容が薄くなるんじゃないかと思いましたが、バッハという人物はドイツの作曲家をテーマに書く以上は紹介しないわけにいきません。現代の音楽に多大な影響を与え、日本では「音楽の父」と呼ばれています。
さて、バッハの簡単な生い立ちについて書いていきます。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(以下バッハ)は、ヨハン・アンブロジウス・バッハ(Johann Ambrosius Bach, 1645-1695)の8人兄弟の末っ子として生まれました。バッハ一族は多くの作曲家を生み出しており、父も作曲家でした。
ヴァイマルの宮廷楽団に就職したバッハはヴァイオリンを担当していましたが、代理でオルガンを担当することもありました。アルンシュタットの教会に新しいオルガンが設置され、これを試奏したバッハは優れた腕をかわれてそのままオルガン奏者に採用されました。その後、バッハは4週間の休みをとってリューベックに向かいます。3ヶ月間もブクステフーデのもとで学び(4週間をオーバーして)、アルンシュタットに戻った時にブクステフーデに影響された音楽を披露すると、このことについて糾弾されます。また当時、かなり前衛的な音楽を作曲し教会からの評価を下げてしまっています。その後ミュールハウゼンのオルガニストになりますが、暮らしはいいものとは言えずまたヴァイマルに戻り、ザクセン=ヴァイマル公国の宮廷オルガニストになります。その後ケーテン公国宮廷楽長に招聘され、ヴァイマル公と契約でもめて解雇されると、ケーテン宮廷楽長として恵まれた環境で作曲します。そして聖トーマス教会のトーマスカントルを経て、ザクセンの宮廷音楽家に任命されます。しかし脳卒中で倒れ、手術をします。しかし手術は失敗し、後遺症を薬品で抑えなければならない状態になります。このことがバッハの体力を奪い、1750年にこの世を去りました。
バッハの死後、バッハの存在は忘れられてしまいます。1829年にメンデルスゾーン(Felix Mendelssohn Bartholdy, 1809-1847)がマタイ受難曲のベルリン公演を行い、そこからまたバッハの存在は再認識されました。
ここからはバッハの音楽をほんの少しですが紹介します。
これは、バッハの小フーガと呼ばれる楽曲です。フーガは、曲のメインのメロディーをそれに似たメロディーが追いかけ、絡み合うような曲のことを言います。動画内では、最初のメロディーが流れ、18秒からまた似たような旋律が流れ、40秒からさらにもう一つ重なり・・・といった作りです。メロディー一つの厳かな雰囲気はもちろん、これが重なってさらに重厚で壮大な音になっていく様は圧巻です。規則的に音が鳴っている感じは数学的だとも感じます。バッハはフーガ作品を多く残しているのでこれ以外にも是非聴いてみてください。
最後にイタリア協奏曲を紹介します。イタリア協奏曲は第一楽章から第三楽章まであります。第一も第二もとても綺麗ですが、個人的にはグレン・グールド(Glenn Gould, 1932-1982)というピアニストの弾いた第三楽章が大好きなのでこれを選曲しました。グールドは、楽譜に指定されている速度のおよそ2倍のテンポでこの曲を弾いています。高速なのに機械的に聴こえないのが驚くところです。この曲の中でも、先ほどのフーガのような追いかけっこが登場しています。グールドの速さと音の並びがカッコいいですね。よかったら第一、第二楽章も聴いてみてください。
Schöpfung
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