みなさんは上に並んだ5枚の図版の中で、どれがルターの肖像画だと思いますか?
実は上の5枚の図版は、いずれも一人の人物、すなわちマルティン・ルターの肖像画なのです!
図1から順に見て行くことにしましょう。
図1は、当時ヴィッテンベルクのザクセン選帝候フリードリヒの宮廷画家であったルーカス・クラーナハ(父)(1472-1553年)が、1520年に銅版画で制作したルターです。力強く張った額の下に鋭い目が光っており、ルターはここでアウグスティヌス会修道士の衣服とトンスラ(修道士の髪型)の姿で、四分の三正面観で描かれています。
図2は同じ画家が翌年1521年に銅版画で描いたルターです。ここでは大きな博士帽を被った僧侶として描かれており、真横から見た肖像なので、最初の銅版画とは、かなり印象が違います。
図3は、クラーナハが更に翌年1522年に今度は木版画で描いた騎士の姿のルター、通称「ユンカー・イェルクとしてのルター」です。1517年に「95か条の提題」を出したルターには、1521年に神聖ローマ皇帝カール5世が開催したヴォルムス帝国議会以降、その身に危険が迫っていました。そこでルターは再び頭髪を伸ばし、鬚をはやした騎士に「変装」して、ザクセン選帝候フリードリヒ賢候の持ち城であるヴァルトブルク城に逃れたのです。そこでルターは聖書のドイツ語訳に専念したのでした。
図4はルターの肖像画としては、最もよく知られた1528年のクラーナハの油彩画です。現在でもドイツのプロテスタントの幼稚園にはこのルターの肖像を掛けることが多いようです。この肖像画は夫婦のダブルポートレートで、このルターの肖像画が左に、右には妻のカタリーナ・ルターの肖像画が配されます。ルターは初めて聖職者でありながら妻帯した人でした。
そして図5は「七つの頭のルター」です。ルターは多彩な人で、学問、音楽にも秀でていましたが、その能力が、カトリック側の批判者たちには七つの顔を持つ怪物に映ったのでした。これは1520年に描かれたヨハネス・コッホロイスの著作『マルティン・ルターの七つの頭』の表紙につけられた、ハンス・ブロザーメルによる木版画です。
それにしてもなぜこのように沢山のルターの肖像画は描かれたのでしょうか。個人の顔を描く「肖像画(Portrait)」というジャンルが絵画に登場したのは14世紀の後半でした。初めは位の高い王侯貴族の姿を後世に残す目的で描かれ、15世紀に入ってようやく、高位の廷臣、豊かな市民も肖像画を描いてもらえるようになったのです。ルターは坑夫の息子として生まれ、後に僧侶となり、間もなく若くて情熱的な神学者として、新設のヴィッテンベルク大学の人気教授となりましたが、本来このように沢山の肖像画が描かれる身分の人ではありませんでした。では、なぜこのようにルターの肖像画が多数制作され、広まっていったのか。その背景、ならびに意図は何だったのか。この続きはフォーラムでお話したいと思います。
(青山愛香 教授)
ルターと妻カタリーナ・フォン・ボーラ
(Lucas Cranach d. Ä., 1529)
千葉県の成田高校で教員をしている齋藤と申します。
返信削除高校の宗教改革の授業で「ルターの7つの顔」を題材にしたいのですが、
7つの顔についての詳細を知りたくこちらに書かせていただきました。
ラテン語で書かれていると思うのですが、それぞれの性格わからず…
突然の投稿ですが、教えていただければ幸いです。