2016年1月29日金曜日

講演「ドイツの歴史教育にみる歴史認識―日独比較の視点から―」

 「ドイツの教育を考える:歴史・政治教育の視点から」において、黒田先生は「(ドイツにおいて)対立があるのは当り前」という意見を述べられました。対立、つまり議論なしには何の発展・解決もあり得ないのです。どうしてこの人たちはこのようなことを主張しているのか?それは正論なのか?そうした議論の例として紹介するのが、タイトルにある黒田先生の講演です。講演は12月16日、本学にて行われました。
詳細は動画で観ることができるので簡単に説明しますが、この中で先生は、西尾幹二氏の「ヴァイツゼッカー前大統領謝罪演説の欺瞞」を検証、反駁しています。ここでは戦争責任が密接に関わってくるからです。
 私が(あるいは私たち全員が)特に記憶しておくべきだと思ったのは、ドイツの歴史教育ではその目標として、資料をきちんと読める、解釈できるようになることが明記されているということです。先生の言葉を借りれば、人の言葉を鵜呑みにしないという意味で、これはメディア・リテラシーについても言えることではないでしょうか。

 歴史の教科書がどう改変されようと(という風に書くと「偏ってる」と言われそうですが)、自分自身で歴史を検証することはできます。様々な資料をあたってみることもその手段の一つです。ここでカナダの歴史家、マーガレット・マクミランの著書から一部を抜粋して引用してみましょう。

 「ジョン・ハワードがオーストラリアで国の歴史カリキュラムを推進しようとしたとき、シドニーの女子高校の校長は、議論の的となっている最初に白人がやってきたときの歴史を自分がどう取り扱っているか述べた。「私たちは白人が定住していく全過程を詳しく検証した。植民地主義、侵略、虐殺のことを」。ある人々に痛みを与えようとなかろうと、正直に過去を検証することは社会が成熟し他者に道をつなげる唯一の方法である」(マーガレット・マクミラン『誘惑する歴史: 誤用・濫用・利用の実例』真壁広道訳、えにし書房、2014年)

 今回は講演という形でしたが、このような、議論を活発にする授業が教育の早い段階からあってもいいのではないでしょうか。分析、批判ということで言えば、たとえばドイツの授業では(対談でも述べられていたように)ネオナチも教科書で扱っています。また教員のためにKleine Reihe Politische Bildung というくくりで„Unterrichtspaket Demokratie und Rechtsextremismus: Auseinandersetzung mit Rechtsextremismus anhand rechtsextremer Musik“(Britta Schellenberg)と題された本も出ており、これはその手の政党に対する予防措置にもなっているのだと思います。著者は別の本で、NPDは無料のCDを配ることによっても、若者にアピールしていると書いています(詳しくは、Right-Wing Populism in Europe:Politics and Discourse中に収められた„Developments within the Radical Right in Germany:Discourses, Attitudes and Actors“を参照してください。他にも投票者の社会的地位・性別、media-savvy的な特徴を持つ右翼政党など、色々に分析されているので、関心のある方には一読をおすすめします)。
 ドイツの歴史・政治教育では、まず第一に議論がある。もちろん和を大切にする日本の精神風土にも利点、美徳はあります。しかしそればかりに拘泥していて議論の機会を逃していいのでしょうか。政治家になってから歴史勉強会を立ち上げるより、教育を受けている段階で歴史を検証するほうがいいと、自分などは思うのです。

 この動画をアップロードした人は、それだけで生活できるYoutuberにはなれないかもしれません(失礼)。しかしVideo自体は新書一冊分の価値があると言ってもいいでしょう。

 それでは、黒田先生の講演をお聴きください。



Yuki Watanabe(ドイツ語学科3年)

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