遅まきながら先日、フランクルの『夜と霧』を読了しました。以前、ある全国紙に『国語教師が中学生に読んで欲しい一冊』というランキングが掲載されており、その中でこの作品は、夏目漱石の『こころ』や、あさのあつこの『一瞬の風になれ』等に連なり10位になっていたため、ドイツ語学科に身を置くものとして、一度は読んでおかなくてはと思ってはいたのです。ですが、この本の著者が精神科医だと知り、「硬い、難解な内容なのではないか」としりごみをしてしまい、ずるずると読まないままでいました。けれど、知人にそんな話をしたところ、「専門的な知識がなくても問題なく読める。それより、是非読んだほうがいい」と勧められ、勇気を出して挑むことになりました。
そして、強制収容所の実相を知り、あまりの悲惨さに胸をえぐられるような思いをするとともに、考えざるを得ませんでした。
「理想の人間」とはどうあるべきなのか、と。
ヴィクトール・フランクルは、オーストリアのユダヤ人精神科医で、その生まれのために第二次世界大戦中ナチスによって強制収容所に送られました。そこで彼は、心理学者として収容所での人々を観察します。そして、そこで辿り着いた「人間とはなにか、人間とはどうあるべきか」という問いへの結論と、自らの収容体験を綴ったのがこの本『夜と霧』です。1947年の出版以来、この作品は数カ国後に翻訳され、出版から半世紀以上を経た今なお読み継がれています。
被収容者が体験した収容所生活は、言葉に尽くせないほど凄絶を極めるものでした。
人々は僅かな食事で過酷な労働を日々強いられ、また寝所である収容棟は衛生さとは遠くかけ離れていたため、抵抗力を失った収容者は病や飢えで次々と命を落としていきました。
そして、残された者達は、生きのびるというその目的のために、もはやなりふり構わなくなっていったといいます。自分やその親類、近しい友人が生きるため、それ以外の他人に犠牲を押し付けることを厭わなくなったのです。大方の人間は、死にたくなどないでしょう。こんな願いを持つ人に、後ろ指を指すことができるでしょうか。
けれど、生きるか死ぬかという瀬戸際に置かれた人間が、このように変化するのは、果たして避けられないことなのでしょうか。これに対し、収容生活を体験したフランクルは、「否」と唱えています。
本文にはこう述べられています。
どんな権力も運命も、「与えられた環境の中で、どのように振る舞うか」という人間の最後の自由だけは奪うことができない。その証に、強制収容所にいたことのあるものは、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人びとを知っている、と。
自分がどのような人間でいるかを最終的に決定するのは、ほかならぬ自分自身なのです。
現代、私達は自分自身のあり方について意識して考えることはあるでしょうか。どんな集団の中でも、容姿や能力の劣る人に対する差別や嘲笑、いじめは悲しいけれど存在し、また、「自分さえ良ければいい」と、他者を顧みない人もいます。平気で他人を傷つける人もいます。
けれど、このような心の在り方は、果たして人間的といえるのでしょうか。
自分自身の在り方を、少し立ち止まって考えてみませんか。フランクルの言葉を借りれば、自分自身のあり方をどう決定するか、私達は日々「試されている」のです。
また、「与えられた環境でいかに振る舞うか」という問いは、「現状に不満があっても、腐らず努力ができるか」という、ままならない社会で生きる私達が必要だろう問いにも言い換えられることができるのでは、と私は愚考しています。
(フランクルの意図していたものからずれているような気もしますが……)
長々とまとまりのない文章を書いてしまいましたが、フランクルの文章はもっと読みやすいです。
強制収容について学ぶ上でもきっと役に立つと思いますので、是非お読みいただければと思います。
しゃもじ
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