学生記者のヨシタカです。今年ももうそろそろ終わりですね。
前回の記事では「ツィンマーマン電報」という歴史の分野について書きましたが、今回も同様に歴史的なテーマに挑みたいと思います。今回テーマにするのは「ベルリンの壁」で、特に「壁を越えようとした事例」に焦点を当てたいと思います。
ベルリンの壁
(Berliner Mauer)とは、みなさんもおそらくご存知のとおり1961年8月から89年11月まで東ドイツの孤島である西ベルリンを囲い続けた全周150kmを超えるコンクリート壁のことです。東ベルリン市民の西ドイツへの流出を防ぐために建てられたこの壁は、東西分断という冷戦を象徴するものとしても知られています。
ベルリンの壁は1980年代の時点で、左の図のような構造になっていました。東ベルリン側から見たときまずフェンスがあり、その先に最初のコンクリート壁があることがわかります。その壁を超えると、障害物、監視塔、そして照明により照らされた場所があり、この時点で見つからずに逃亡するのが相当困難であることがうかがえます。一番左の壁の手前に見える堀は、強行突破を仕掛けてくる自動車を足止めするためのもので、最後の壁は上の部分が丸く作られていて、よじのぼろうとしても手が引っかからないようになっています。このように二重の壁に囲まれ、一定間隔に置かれた監視塔から武装した警備隊に見張られている以上、逃亡は不可能であったといっていいでしょう。
東ドイツ国民の、特に若い世代が西ドイツに逃亡しようとベルリンの壁を超えようとしていたことは有名ですが、なぜここまで警備の堅いベルリンの壁から逃亡しようとしたかはご存知でしょうか。実はベルリンでない方の東西ドイツの1400㎞もの国境線にはさらに厳しい警備がひかれていたのです。東西ドイツの国境の東ドイツ側では、国境沿いに鉄条網が設置されていたうえ対人地雷がまかれ、一定間隔で設置された監視塔からもサーチライトが照らされ常に見張られていました。ここでは障害物も撤去されていたようで、この見晴らしのいい国境地帯を突破しようとなると早い段階で発見される可能性が高く、また地雷を踏むリスクも負わなければいけなかったのです。
さて、このベルリンの壁は30年以上に渡って東ベルリンからの人の流れを遮断しつづけましたが、建設から崩壊までのこの期間に少なくとも5075人もの東ドイツ市民が様々な方法で西ベルリンへの脱走に成功しています。失敗した例も数多くありますが、こちらの正確な数は残念ながら分かっていません。以下に西ベルリンへ逃走しようとした典型的な4つの事例を紹介したいと思います。
最初に紹介するのは、装甲を施した自動車で国境検問所を強行突破したという事例です。1961年11月14日、5人の東ベルリン市民が乗った車が東ドイツ側のショセー通りの国境検問所に高速で進入してきました。突破するつもりであると気付いた国境警備隊はこの車に向かって100発以上発砲し、右前のタイヤとフロントガラスを破壊しますが、鉄板で身を守られていたこの車は乗っていた男性3人女性2人の計5人を乗せて無事に西ベルリンに到達することができました。写真は実際に逃走で使われた車で、窓ガラスに弾痕があるのが確認できます。
余談ですが、この逃走で使われた車のオペルP4は第二次世界大戦以前にドイツで生産されていた車種です。この頃にまだ残っていたのは驚きです。
車で国境検問所を強行突破するというのはこの後にも何度か見られる手法です。頑丈な壁を破壊して障害物を突破するよりも、比較的通りやすい検問所を抜ける方が安全という訳ですね。ここでは詳しくは紹介しませんが、東ドイツ軍の19歳の成年がソビエト戦車を盗んで壁を破壊しようとした、という事例もあります。ちなみにこの戦車は壁に刺さったまま動けなくなってしまい、戦車から降りた彼は警備員に撃たれ重傷を負いながらも無事に壁を乗り越えました。
次に紹介するのは「西ベルリンまで飛んでいく」という方法です。1986年12月20日の夜、37歳の東ドイツ人の男性が、ポツダムの近くのファールランドより自作ハングライダーで西ベルリンへの着陸を試みました。離陸地点から西ベルリンまでは約6キロありましたが、飛行中は視界が悪かったうえに操舵が難しく、また寒さからついにはベルリンの北、またもや東ドイツの地に着陸せざるをえませんでした。この飛行を目撃した住人が既に東ドイツ警察に通報していたため、着陸後に彼は逮捕され国家保安省に引き渡されました。
数か月の拘留の後、彼は2年10か月の実刑判決を受けます。しかしこの4か月後ホーネッカーのボン訪問に際して特赦がかけられ、1987年12月家族とともに西ドイツへの移住が認められたのでした。
飛んで逃げるというのはどうやらマイナーであったようですが、他にも気球で逃げようとした例もあるようですす。
上の2つは陸と空を行くというパターンでしたが、他にはどんなものが思いつくでしょうか。おそらく地中を通るという手が頭に浮かぶのではないかと思います。3つ目に紹介するのは「壁の下にトンネルを掘る」という手段です。
壁が建設されてから約3年後の1964年10月3日と4日、145メートルもの長さの地下トンネルを使って57人もの東ドイツ市民が西ベルリンへの脱走に成功しました。なんとこのトンネルは西側のベルリン自由大学の学生たちが東ドイツ市民の逃亡を助けるために半年も掘りつづけたものなのです。
しかしこのトンネルは逃亡2日目の10月4日の夜に当局にバレてしまいます。またちょうどこの日ベルリンの東ドイツの国境警備隊の一人が射殺されるという事件が起こり、東ドイツ当局は犯人がこの協力者たちであるとさかんに宣伝したためこの逃亡作戦は世間的な賛同を失ってしまいました。
そもそもトンネルを掘るというのはとんでもない苦労であり、また掘った土の処理も大変なので、あまり一人でできるような作業ではなかったと考えられます。それにあいまって監視体制の厳しかった東ドイツでは仲間と協力してトンネルを掘ること自体相当困難であったことがうかがえます。とはいえ、地下トンネルを通るというこの手段はこの事例に留まらず他にも何度か使われています。
さて、ここまで陸路、空、地中という3手段を紹介しましたが、実はまだあります。1963年11月21日、21歳の東ドイツ人男性が西ベルリンの西側国境沿いにあるユングフェルン湖 (Jungfernsee)を潜って、つまり水路を使って西ベルリンに到達したという事例があるのです。
この際この男性は下手に水面に浮いて国境警備隊に見つかることがないようおもりのベルトを着け、できる限り音を立てずに進んだそうです。11月ということもあって水は冷たかったものの、1時間半もの時間をかけてヘトヘトになりながらも何とか気付かれずに西ベルリンの領域に到達することができました。
ベルリンは川やら湖があるので、このような潜水という方法の他にも遊覧船で警備隊のボートに追われ銃撃されつつ西ベルリン側の川岸まで逃げたという事例もあります。
このように東ドイツの人々がいかに壁を越えたかを調べてみると、意外にユニークな方法がありとても興味深いと思いました。しかしこれは必ずしも成功例に限らず、逃走過程で重症を負った人や亡くなった人が成功例と同じ程度多くいるのも事実で、いかに国境を超えるのが大変かつリスキーな行為であったか示しています。
この記事を書くにあたってはhttp://www.chronik-der-mauer.de/
を参考にさせていただきました。ベルリンの壁に関する詳しい資料をドイツ語と英語で読むことができるので、ぜひ一度目を通してみてください。
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