2019年10月28日月曜日

【インタビュー】卒業生が紹介するドイツ語学科 Vol.2前半 (文字起こし版)


ゲスト:高木典子さん(ドイツ語学科卒)
インタビュアー:木下大斗(ドイツ語学科4年・ヴェルナーゼミ所属)

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 現在の高木さんのお仕事について簡単に説明していただけますか?


 はい。私は今のドイツに本社を置く人材コンサルティング会社の経営者として、一経営者として、仕事をしていて、在住は上海になります。上海、日本それからヨーロッパを移動しながら、主に採用はアジア各国、あとコーチング事業っていうのがあるんですけども、それも中国とそれから日本を主に活動しています。




 高木さんの大学生活について少し振り返っていただきたいんですけども、大学生活の中では、どのような学生だったでしょうか?


 はい、えー、大学生活はとっても楽しかったというふうに覚えています。ただ、あまりお手本になるような学生ではなくて、最初の2年間はあまり勉強しない、ホントにほとんど勉強しない、ドイツ語学科にもかかわらず、ドイツ語がほとんど喋れない学生でした。
 ただ、部活動とアルバイト活動と活動にほとんどエネルギーを費やしていたんで、まあ、バンド活動してたんですけどそのバンド活動に費やすお金と時間の方が、もしかしたら学問に費やすよりも多かったかもしれません。




 ゼミはどちらのゼミに参加されてましたか?


 エーベルト先生(※)のゼミに入ってました。当時エーベルト先生は、不安とは何かっていうテーマを元に、あの、かなり哲学的な、哲学的な勉強って言うのかなあ、ゼミだったというふうに覚えています。 

 ※バルバラ・エーベルト先生は、オーストリア出身で2000年3月まで獨協大学にいらっしゃいました。現在はドイツ在住。



 獨協大学を卒業後にドイツのボーフム大学に留学されていたのですけれども、その動機やきっかけをおうかがいしてもよろしいですか?


 えーと、実は最初の一年目は姉妹校だったというデュースブルク・エッセン大学(※1)にまず入りました。そこでドイツ語を磨きながら卒業する決心もしたのですけど、ただ早く卒業するために言語学部にいこうと決めたのですが、デュースブルク大学よりもボーフム大学(※2)の方が言語学に関しては、あの、非常に優秀な先生がいらっしゃったってこともあって、当時お付き合いしてたボーイフレンドと一緒にボーフム大学に転入をして、そちらで教員の非常勤教師のような講師の資格をもらえたので仕事をしながら学生としてMagister、まあ修士ですね、修士課程に入りました。

 ※1:ノルトライン=ヴェストファーレン州にある大学。獨協大学との協定校。
 ※2:正式名称はボーフム・ルール大学。デュースブルク・エッセン大学と同様、ノルトライン=ヴェストファーレン州にある大学。



 多くの学生が大学卒業した後に就職活動に移られると思うんですけれどもその就職活動を、日本でまずせずに、ドイツにいったってその理由と言いますか、留学そのものの理由を聞かせていただけますか。


 留学そのものの理由は、えーとですね、建前は、ドイツ語が喋れないからドイツ語が喋れるようになるには、まず、いかなくてはいけない、ドイツで勉強しないといけないって思ったのが一つで、でも建前、それは建前であって、本音はヨーロッパに住みたい、もうそれだけでした。
 ヨーロッパに住むに至って、まあドイツっていうのが一番入国のしやすい国だったので、あのドイツの大学に入って、で、それから仕事を探すつもりで、あの実はドイツで学びました。



 大学でドイツ語を学ばれる前から、少しヨーロッパで生活をしてみたいっていうのは、こう憧れであったり夢っていうのは、もう持っていたんですか?


 そうですね、そうですね。3年生の時に初めてヨーロッパにいって、で、ヨーロッパに魅せられてしまって、で、もう卒業したら必ずここに帰ってくると4年生の時にやっぱ6週間ぐらいバックパッカー、バックパッカーとしてヨーロッパのあちこちを回って、で確信をして帰ってきたという。で、もう卒業したらすぐにヨーロッパ行くっていうことを当時、そうですね3年生の後半で決めてました。ですので就職する必要もないし就職活動する必要もなかったっていう状況です、はい。



 その魅せられてしまったという、こうヨーロッパの魅力っていうのは特にドイツに関わらず、どういったところにあると思いますか?


 そうですね、なんでしょう・・・。あのヨーロッパがどんなところなのか、何の想像もしないで行ったんですね。で、あの初めて着いた時に感じたものが、やっぱりこうアメリカとまず比較して、アメリカと比較してときに、すごく自由ですごく安全で、すごく歴史のある場所っていう印象と、あとはあの、すごく少ないお金で豊かな生活ができる場所だなっていうふうにどちらかというとショックを受けました。
 あの、資本主義の日本から行った時に社会主義の国に来たような感覚を覚えて、なおかつあの決して貧しくないというか、なんて言うんだろう、豊かな生活の中に日本とは違う生活のテンポ、ゆったりと流れる、あのテンポになぜか魅せられてしまって、「ああ、ここに住みたい」と。たぶんおそらく今振り返れば毎日通勤電車に乗って何時間もかけて通勤をして夜遅くまで仕事をして帰ってくる父を見て育ったので、あれは私にはできないと思ったのとそれからヨーロッパ行った時のその空気感っていうのかな、それがすごく心地よかった、ここで住んでみたい、個々で仕事をしてみたいってふうに思ったってのがあります、はい。
 でも実は、海外に出てみたいっていうの高校生の頃からの思いで、それがあったからこそ外国語学部を選び日本語教師の養成講座を取れる大学に来たっていう、獨協大学に入ったそもそもの理由も、実はそこにありました。



 では、ここから少し留学をしてから、まあ現地で実際に就職活動をされてお仕事に就かれて、ここまでのキャリアを築けたと思うんですけれども、そちらのまあ、現地で採用されて就職された高木さんの強みであったりとかその海外生活ならではの経験とか何かお話しいただきますか?


 そうですねぇ、私、実は海外に出てもう20年以上になってしまうので新鮮な頃の気持ちって、ちょっともう覚えてないんですが、やっぱりあの、初めてドイツで生活をし始めた時にたくさんの不便を感じました。
 それから日本では必要のなかった、えー、なんか待たなきゃいけないこととか我慢しなくてはいけないことっていうのが、日本と違うものがたくさんあって、で、うーんその、海外に暮らすことによって日本っていうのがどういう国で、あの自分が住んできたところそれから育ってきた環境っていうのは、どういうところなのかということを客観的に見ることができるようになった。
 で、そういうふうに聞くと、「じゃ、それがなぜいいことなの」って思うかもしれないですけど、それがあったからこそ、それができてドイツという国がどういう国でもしくはフランスで言ったらフランスという国がどういう国で、どういう国の違いがあって、どうしてみんながこういうふうに振る舞うんだろうっていうような答えが、速く見つかるようになった。そうすると、たとえば,いい思いをしなくても、「ああ、これは違うんだからしょうがないのかな」とかいろんなことに腹を立たなくなったっていうのかな、そういう強さがついたように思います。



 最初の頃の就職活動の記憶があまり今は薄れてきてしまっているということだったと思うんですけれども。あの当時、まあ、日本人としてヨーロッパに渡られて、でその、海外で仕事を得るということで、なにかこう意識していたことや、その、まあ日本人としてなにかこう強みに思っていたことも含めて、何か思い出せることありましたらおうかがいできますか。ドイツでの就活についてですか、そうですか?


――そうですね。
 ドイツで就職活動したときには、ドイツの学生を、やっぱり真似するような形で、ドイツの学生がやってることを自分でやろうとしたんですね。で、ただやっぱりドイツの学生には勝てない、ネイティブスピーカーでない弱みとあと、今おっしゃっていだいたように、日本人であるということが逆に邪魔をすることがよくあったので、あの、その逆手を取って、じゃあ日本語ができる人材を欲している現地の企業を探すっていうふうに矛先を変えたってのがあるのと、あともう一つは私は絶対にこの会社には就職しないと、絶対に現地の会社に就職するんだっていうそれだけ目標だったので、あの、どこの会社かわからない会社には電話をして、これはドイツの会社ですかみたいな、あの、お問い合わせをわりと積極的にしました。
 で、そんなこと今はしないよって多分皆さん思うと思うんですけど、インターネットでわかると思うので、ただ、当時はまさにインターネットが使い始められていた頃だったので、ネット上で何かを調べるってことが当たり前ではなかったんですよね。それもあって、あの、電話をして、で、たまたま電話をしたところの会社が実はアメリカの会社だったんですけど、ドイツの会社を買収して、ドイツのはもともとドイツの企業、企業風土のある会社だったので秘書の方が、いやあの、ほとんどドイツの会社と思ってもらっていいよっていうふうに、おっしゃったのがきっかけで、そこに応募をして、そこにスッと採用されたという、あの、ラッキーな出来事がありました。




 あまりこう失敗をしたとか、こう就職活動がなかなかうまくいかなかったっていうような機会ってのはそんなに多くはなかったって感じでしょうか?


 うーん。いや、あの、普通に出した履歴書は、ほとんどNoで返ってきました。ドイツでは、いわうゆるその、毎年同じ時期に皆さんが就職活動するというわけでもないので、自分の卒業が決まったら、あの就職活動をするんですけども直接レターを出すんですね、直接企業に、あの、こうこう、こういう理由で応募したいっていうような履歴書を送る制度があるので、それでまあ、あの、自分が行きたいなと思う企業を見つけながら、もしくは近所にある会社に対してとりあえず履歴書を送ると、で、返事が返ってくると嬉しいんですけども、まあ丁寧なあのリフューザルっていうか、「ありがとうございました」って連絡、「いまポジションはありません」というような回答だったので、やっぱり最初の12か月それが続いたときは、「ああ、やっぱり私は違うところじゃないと就職できないのかな」とか、周りの友人は「日系の企業になぜ応募しないの」と言ってきたり、ええ、多分、あの、すごく生意気な学生だったんで,日系企業に応募すればたぶん採用される、でもそれすごく嫌だったんですね。
 なので、あの、なんだろう 、困らない限り、生活に困らない限りは、まあ、やってみようと、で、先ほど申し上げたように、その電話した会社が、まあ最終的に、即決してくれたのでそういう意味では失敗そんなに多くないんじゃないって言われてもその通りかもしれないんですけれども。でも、やっぱり今思えば、積極的に電話をしたっていうことがよかったのかなとかいうふうには思います。
 あとはあの、少なからずとも方針を決めて、「これはダメ、これはいい」っていうのを自分の中で決めてたので、それももしかしたらよかったかなというふうに思います。



 その、まあ、モチベーションを常に高く保ち続けるですとか、あと、どうしても日系企業ではない企業に勤めたいっていう、こう自分を奮い立たせるよう思いっていうのは、今思うと、どういうところから来てると?


 それはですね、あの、辛い学生生活だと思います。あの辛い学生生活って言ったら、皆さん「なんで」って思うかもしれないんですけど、先ほど申し上げたようにドイツ語ペラペラでドイツ入ってないのでドイツの大学に入った時にやっぱり授業についていくのが、かなり困難だった。
 それから、何年経っても講義にいって100%わかった気がしない。で、最後に100ページに及ぶ論文をドイツ語で書くんですけれども、その文章を書くことの難しさ、論文を書くことの難しさっていうことで、最後の最後、卒業する間際まで、最後の6ヶ月は本当に苦しかったので本当に卒業できるんだろうか、こんだけ時間を費やしてお金を費やしたのにこれで卒業できなかったら、「一体どうするの」じゃないけれども、かなり辛い時期があったので、その、そんだけ辛い思いして卒業したのにここで安易な道を行くのはもったいない、うん。
 で、別に日本の企業に就職しなかったからといって、それが必ずしもいい就職とは限らないじゃないですか。でも、せっかくドイツの学卒なんだから、ドイツの、ドイツ人の学卒と肩を並べて就職活動したいっていうプライドが多分どっかにあって、あのですね、語学で負けててもいいので、そういう人たちの中に混ざりたいっていう気持ちが、どうしてもあったんだと思いますよね。で、結果としては、でも日本語のできる人材を探してる所に行ったので結果としてはこう、なんだろうな、Japan Deskみたいなところで、私しか、やっぱり、私のような人間が欲しいと思ってるとこに行けたっていうところもあるので、そういう意味で結局、厳しい言い方をすれば、ドイツ人と肩を並べる仕事をしてないかもしれない。私の強みを活かす場所を見つけられたっていうことなのかもしれないですよね。うん。




 高木さん、今回は貴重なお話をどうもありがとうございました!